先日、真夜中の作業中にあまりにもお腹がすいてパンを焼いて食べた。八枚切りのパンを二枚トースターで焼き、一枚はバターを、もう一枚にはイチゴのジャムを塗って食べた。それでもまだ足りなかったのでもう一枚焼いた。前に焼いた二枚と同じ時間焼いたところ、一枚だけだったから火の通りが良かったのか、あるいは既にトースターが温まっていたからかわからないが、とにかく黒焦げの炭ができた。それはほとんど純粋な炭だった。竈門炭治郎だ。残念ではあったが、長男だから我慢して食べることにした(末っ子長男)。

 炭を一口食べて咀嚼してみたが、とにかく苦い。でもその苦味の中に一瞬だけふわっと懐かしい味がした。これはおばあちゃんちのパンの味だ。
 子どもの頃、夏休みにおばあちゃんちで食べたパンは自分の家で食べるそれとはなにか違った味がしていた。特にお手製のパンなどではない、普通の食パン。なんでうちとは違う味がするんだろうと不思議に思っていたが、どうやらパンを思い切りよく焼くとあの味になるみたいだ。たぶん、炭になるギリギリ。だからこそ炭からもあの懐かしい味がほんの少しだけしたのだろう。二十年以上の時を経て、おばあちゃんちのパンの秘密を解き明かした。


 昨年、「もう長くもないだろうし、元気なうちに会っといて」みたいなニュアンスをたぷたぷに含んだ母の誘いを受けて、数年振りにおばあちゃんに会いに母と姉と共に兵庫まで行った。正確な歳は忘れたが九十代前半のおばあちゃんは会うなり僕の手を取って「久しぶりやなあ」と笑った。
 おばあちゃんは見た目こそ少し腰が曲がって小さくなったくらいでまだまだ元気そうだったが、ゴリゴリに認知症が進んでいて数分前の出来事をすぐに忘れてしまうというような状態だった。「仕事はうまくいってるんか?」みたいな同じ質問を何回もしてきたりだとか。RPGに出てくる会話が数パターン用意されてる村人みたいでちょっとおもしろかった。
 昔は背筋がピンと伸びていてキビキビと働くしっかりとした人だったのでショックではあったが、数十分もすれば何度も同じことを聞くおばあちゃんにも慣れてあまり悲観的に考えることもないかあと思うに至った。性格は変わらずやさしいままだし、僕や母、姉のこともよく覚えている。不思議なものでおばあちゃんは数分前の出来事をすぐに忘れてしまうが、二十年以上も前に僕が親戚一同にお小遣いをせびった話や自分が会社に勤めていた頃の話などはよく覚えていた。たぶん思い出は忘れないんだろう。
 それをわかっているからか、母もおばあちゃんには昔の話をよくするようにしていた。僕も昔の話をした。よく甲子園のダイエーでおばあちゃんにおもちゃを買ってもらっていたことだったり、母が病気で入院していた時におばあちゃんに世話をしてもらっていたことだったりとか、その他いろいろ。思い出は僕らとおばあちゃんを繋ぐ絆であり、おばあちゃんをおばあちゃんたらしめている存在証明でもあった。人は年を取ると思い出と寄り添って生きるのだと僕は思った。

 夕食時になり、おばあちゃんと寿司を食べに行くことになったが、そこでは困ったことが起きた。
食えども食えどもおばあちゃんが「全然食べてへんやないの…」と心配そうに僕に寿司をもっと食べるようメニューを渡して催促してくるのだ。「食べてる食べてる」なんて答えながら、最初は文字通りの老婆心で心配しているのかと思っていたが途中でハッと気がついた。僕が食べた寿司がおばあちゃんの記憶に残っていないのではないか。
 要するにこういうことだ。寿司は思い出と違って食べると目の前から消えて0になる。今のおばあちゃんにとって0=スタート地点だから僕が大量の寿司を食べている過程は認識されずなかったことになり、未だスタート地点でちんたらしていると思っているのだ。
 「おれはもうこの寿司というサーキットを何周もしているんだぜ、おばあちゃん」と心の中で思いながらも、「食が細くなった孫」というタイトルの思い出を土産としておばあちゃんに持ち帰らせるわけにはいかない。僕はあえてねぎとろ巻をすべて食べてしまわずに一切れだけ皿に置いておくことにより、「食べている途中」であることをわかりやすく視認できるようにした。まあ、普通に老婆心もあったんだろうけど、認知症が老婆心をブーストしていたのは確かだろう。とにかくねぎとろ巻を1の状態にしておくことで老婆心フィーバーは終わった。胃袋にはもうガリの一枚も滑り込む隙はなかった。

 二日間滞在したあとの別れ際、おばあちゃんは僕達ひとりひとりの手を取って寂しそうな顔で「また来てな」と言った。昔よりも小さくて細く、しわしわの手だった。僕は「また来るよ」と言った。またいくよ。
 帰りの駅へ歩きだしてからしばらくすると母が「最近のおばあちゃん、別れ際は見えなくなるまでずっとこちらを見てんのよ」と言った。振り返ってみると本当に、もう遠くにいてごはん粒くらいの大きさにしか見えないおばあちゃんがこちらを見ているのがわかった。
 あと何回くらい会えるんだろう。小さな小さなおばあちゃんはずっと、見えなくなるまでこちらを見守っていた。


 あの時のことはいい思い出としておばあちゃんの中に残っているだろうか。夜、眠りにつく前に思い出して幸せな気分になれるお守りのような思い出になっているといいんだけど。
 炭を食べながら僕は少しセンチメンタルな気分になった。