その夜、僕は友人と待ち合わせるために駅から少し離れたバーに入り、ひとりで飲んでいた。友人にとても大事な頼み事があったのだ。僕に力を貸して欲しいと。でも待てども待てども友人はこなかった。連絡も一切ない。僕の携帯電話は頑なに沈黙を貫き、ただジャケットの内ポケットの中に存在していた。僕が彼に頼み事をするのだからそりゃ多少は辛抱するけど、いくらなんでもひどいじゃないか。僕は孤独と仲良く酒を飲み、ゆるやかに年を取っていた。

そのようにして僕が二杯目のグラスを空にした時、からんからんと鳴る古くて重い扉を開けて彼女は店に入ってきた。つやのある長い黒髪の目がすらっと横へ伸びている綺麗な女の子。目の覚めるような青色のワンピースがよく似合っている。
 彼女は薄暗い店内をざっと見回したあとカウンター席へ向かうと静かに腰を下ろし、今度はきょろきょろと周りを見始めた。彼女もまた誰かと待ち合わせしているのだろう。その様子が穴から這い出てきたプレーリードッグみたいでなんだかおかしかったから、僕はじっと彼女に注目していた。どうやら僕はかなり熱心に観察をしてしまっていたようで、彼女は敏感に僕の目線を察知するとその発信源に向かってにっこりと微笑んだ。NHKの動物番組で見た敵を見つけた時のプレーリードッグの反応とはだいぶ違っている。
 彼女はバーテンダーに「席を移動する」と指さして合図すると、すぐに僕が座っているテーブル席の反対側に回り椅子にするりと腰掛けた。あざやかな身のこなしだ。一連の動作があまりにスムーズで僕は妙に感心してしまった。まるでよく統率の取れたチームが完成させたダブルプレーだ。僕が口を挟む隙は1センチもなく、ただただ気づいたときには彼女が僕の目の前にいた。
 しかし、もちろん僕は戸惑った。だって僕は「ねえ、いっしょに飲もうよ」なんて気を惹くために彼女を見つめていたわけじゃないのだ。なにせ僕は友人と大事な話をしにここへ来ているのだから。勘違いしてもらっては困る。
 「悪いんだけど、そこには友達が座るんだよ」と僕は言った。
 でも彼女は僕の言葉を聞いても、ただまっすぐと僕の目を見てにっこり微笑むだけだった。そんな風に彼女に見つめられていると、僕はだんだんと自信がなくなってくる。本当に友達と待ち合わせをしているんだっけ……僕は残り少ない歯磨き粉を絞り出すようにして、なんとかもう一度声を出した。
 「その、悪いんだけど……」
 「少しの間だけだからいいじゃない。お友達が来るまで。お友達はずいぶん長い間あなたを待たせているようだし」彼女は口元に笑みを浮かべたまま、少しおどけるようにして肩をすくめて言った。素敵な仕草だった。外国の映画でしかお目にかかれないような。
 「少しの間ね……」

結局のところ僕は彼女と過ごすことになった。そう、少しの間だけ。つまり、断れなかった。いや、僕の落ち度というよりはそれくらいの説得力を彼女の目が持っていると言うべきだろう。外交のスペシャリストとして、政府は彼女を雇うべきだ。
 そもそも彼女の言う通り、友達が来るまではどうせ僕も暇だった。このままひとりでゆっくりと死んでいくよりはきれいな女性と話しているほうがずっといい。僕は正しい判断を迫られ、正しい判断をしたのだ。
 「じゃあ、友達がくるまで」
 なるべく口調に「しょうがないな」という雰囲気が漂うように工夫して僕は言った。
 「どうもありがとう」彼女はそう言いながら片手間に手を上げて店員を呼んだ。僕は店員に三杯目のウイスキー・ソーダを頼み、彼女はモスコミュールを頼んだ。
 
 その後しばらくは初めて会った男女の大抵がそうするように、僕たちは当たり障りのない会話をして過ごした。僕は彼女の髪の毛を褒め、着ている服を褒めた。指の長さを褒め、鼻の形を褒めた。「いい鼻の形だね」
 彼女はというと、特に僕の鼻を褒めたりはしなかった。というよりもほとんど自分から話そうとはしなかった。ほんの少しだけ笑みを口元に浮かべながら、僕の言葉に対して「へえ」とか「ふうん」とかの相槌を打つくらいだ。僕が行っている行為はスカッシュの一人打ちに近いものだった。
 彼女がようやくまともに話し始めたのは、彼女のグラスの飲み物が半分くらいなくなって僕が目玉焼きを両面焼く際の返しのコツについて話している途中だ。
 「ところであなた名前は?」と、彼女は唐突に僕に尋ねた。
 「えーっと、桃太郎だけど」と僕は答えた。
 「ももたろう?」
 僕の名前を聞くと、彼女は眉間にしわを寄せながら唇を軽く噛んだ。なかなか表情が豊かだ。
 「もも太郎?果物の桃?」
 「そう。果物の桃。ピーチ」
 「変わった名前ね。由来は?桃農家の生まれとか?」
 「いや、というよりは桃そのものから産まれたんだよ。桃からうまれた桃太郎。それだけ。オレンジから産まれてたらオレンジ太郎だったかも」
 「ふむ……」彼女は口元に手をあてながら言った。「ユニークね」
 彼女はそのままの姿勢でしばらく黙って自分の顔の左上あたりの空中を見つめていた。たぶん、僕が桃から産まれた時の様子を想像していたんだと思う。あるいは桃をおしりのメタファーかなにかだと考えていたのかもしれない。人は誰しも桃太郎じゃないか、と。どっちだっていい。
 とにかく彼女はそれから堰を切ったように、僕に質問を投げまくった。それはほとんど警察の取り調べと言ってもいいものだった。
 桃から産まれて誰に育てられたのかとか、じゃあ両親は桃の木なのかとか、産まれたあとの桃は食べたのかとか、ところで桃は好きなのかとか、その他いろいろ。大体は僕の名前、というか桃に関することだった。
 僕はそのひとつひとつに丁寧に答えた。川で桃を拾ったおじいさんとおばあさんに育てられたとか、両親は知らないとか、僕が産まれた桃は記念にジャムにして今も取ってあるらしいとか、今でもやっぱり桃は好きだとかそういう話。栽培時に最も病害に強い桃の品種についても聞かれたが、僕はそれに答えることはできなかった。
 そのようにして僕らは協力し、だいたい十ダース分くらいの質問とその回答のふたつの山を積み上げた。手持ちの質問がようやく尽きると、彼女は口を閉じたまま「ふうん」という音を出し、一言「ユニークね」と呟いた。

「ねえ、次はなにを飲む?」と僕は言った。話に夢中になって気が付かなかったが彼女のグラスはとっくに空になっていた。彼女はさも今気がついたかのように空いたグラスをちらりと見ると、右手の人差し指の爪でグラスを軽く弾いて言った。
 「そうね、なにかおすすめは?」
 「そうだな……」
 僕は難問と対峙する数学者のような顔で少し考えるふりをして答えた。
 「ファジーネーブル」
 「そうだと思ったわ。桃から産まれた桃太郎さん」
 彼女はその日いちばんの笑顔で笑った。僕もいっしょになって笑った。親密さを伴うあたたかな空気が、タバコ臭い店内の僕たちのテーブルのまわりにだけ浮かんでいた。

ファジーネーブルが運ばれてくるまでのあいだ、僕は彼女にプレゼントを渡すことにした。もちろん誰にでもあげるようなものじゃない。特別なプレゼント。まあ、本当は友人に渡すつもりだったんだけど。
 「これ、受け取ってもらえるかな」
 僕はジャケットから小さな布袋を取り出してテーブルに置いた。そして儀式じみた手つきで厳かに袋の口を広げて、中身が彼女に見えるようにした。
 「これは?」
 「きびだんごだよ」
 今朝作ってもらったばかりのおばあさんのお手製きびだんご。
 「気に入ってもらえるとうれしいんだけど」
 僕は布袋を彼女の目の前に置いた。彼女は布袋からきびだんごをひとつ慎重に取り出すと、古くて高価な腕時計を品定めするみたいに注意深く眺めて言った。
 「ふうん……悪くないきびだんごね」
 どうやらプレゼントは気に入ってもらえたようだった。彼女はすごく照れくさそうに、長い間きびだんごを眺めていた。僕も嬉しかった。この時間がずっと続けばいいのに。

 もちろん、そんな穏やかなで幸せな時間はすぐに終わる。僕と彼女は少しの間だけの関係なのだ。彼女がきびだんごを丁寧に戻して袋の口を閉じた瞬間、沈黙を破りついに僕の携帯電話が鳴った。それは終末の日の到来を告げる笛の呻きのような不吉で邪悪な音色をしていた。
 電話は友人からだった。彼は彼の人生でいまだかつてなく、また今後も恐らくないであろう未曾有の危機に陥っていた。彼は電話口で「力を貸して欲しい」と僕に力なく言った。なんだってこのタイミングなんだろう。僕は出口の見えない鍾乳洞のような長くて深いため息をついた。でも行かないわけにはいかない。彼を失うことはできない。僕もまた、彼の助けを必要としている。

電話を終えると「行かなくちゃ」と僕は彼女に伝えた。「残念だけど」
 僕の声色には自分でも驚くくらい落胆のニュアンスが含まれていた。「どこに?」と彼女は聞いたが、「さあね」と僕は言った。さあね。
 彼女は頬杖をついたまま「そう」と聞こえるか聞こえないかくらいの曖昧な声で呟いたが、やがて決心したかのように姿勢を正すと今度はきっぱりとした口調で言った。
 「ねえ、ついていってもいいかしら?」と。「きびだんごのお礼がしたいのよ」
 僕もできることなら彼女を連れて行きたかった。でも連れて行くわけには行かない。連れて行けない理由は桃のうぶ毛くらいあったけれど、連れて行ってもいい理由はひとつもなかった。僕は僕のなかで真っ赤になって暴れる巨大な鬼のような感情を力づくで抑え付けて機械的に答えた。
 「君を連れて行くことはできない。残念だけど」

 僕は店員に勘定を支払い、店を出る支度をした。その間彼女は頬杖をついたまましあさってくらいの方向を向き、固く口を閉ざしていた。
 「じゃあ行くよ。また……」
 僕が椅子から立ち上がり、別れの挨拶を言いかけた時に、
 「ねえ、最後に一つ聞いてもいい?」と彼女は言った。
 「なんでも」と僕は言った。

彼女はとても久しぶりに僕の目を見つめると一呼吸置いて、それから僕に尋ねた。
 「あなたのお友達の名前は?」

僕は答えた。
 「犬」
 「ふむ……」

彼女はもう僕の目を見ようとはせずに、何度か小さく頷いて「ユニークね」と言った。
 彼女は少しさびしそうな顔をしているようにも見えた。

momotarou
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